老子眼蔵 伊福部隆彦 同文館 日付の記名あります。老子

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隠れた名著として評価の高い

(引用1)
無為に生きようとするところに老子の思想がある。道に生きようとするところに老子の思想がある。しかし無為や道は、思想ではない。それは事実である。無為や道を思想と見るのが抑々の老子認識への間違いである。

思想によって生きるということを老子は否定したのである。われ等は既に生きる前に、生かされているのである。他の何物にもよらず、このわれ等を生かしているものによって、われ等は生きればよいのである。これを老子は無為に生きるという、無の為(はた)らきのままに生きるのである。ここに無碍の道がある。

思想によって生きるのは、そのこと自体が実は迷いである。必ず?礙するものをもつ。

思想なるものは、それはそれが独自なるものであり体系的深さをもてばもつほど、それは仮設性をもつものであり、従ってそれによって生きようとする時われ等を生かしているもの、この世界を展開せしめているもの、無為、道と合致せざるものをもつのである。その為に必ず彼は現実において破れるのである。

(引用2)
無有は別々な二つではない。それは一つのもののあらわれで、そのあらわれの場所の相違によって呼び名が変わっているだけで、これを同じく玄と呼んでもいいと老子は言っている。

玄は不断の流動をもってあらわれている。しかもそれは、天地の生ずるに先立つもので、音もなく形もなく、しかも廓然として比べるもののない存在で、かつ永遠に死滅することのない存在である。それはあらゆるところに普くあらわれて極るところがなく、つねに休むことなく、一切のものを生々化々しているところのものである。

彼は瞬時も留まっていない。それは河水の流れるように無限の過去から無限の未来へと流れて逝っているが、流れて逝きっぱなしかというとそうでなく、草木が土に還っては芽を出して来るように、くりかえしている。

この循環流動の全体的過程において、われ等に認識されるものの上にあらわれる部分を有と呼び、認識できないところに隠れてしまう部分を無と呼ぶのである。

従って無も有も、ともに玄としてのはたらきをもつ。それは瞬時も停止しない展開であり、そしてそれは無は有へ、有は無へとゆくところの循環である。

この無自体のもっているはたらき、これを老子は無為という。

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