《The Lady at the Bridge(橋姫)》 "On my last visit, as the morning mist was rolling in, I was lucky enough to hear a short melody, a most extraordinary one. It was over in a few seconds, and since then I have not been able to think of anything except how I might hear more." "The hues and the scents of the world are nothing to me now," said the prince, "and I have forgotten all the music I ever knew." Even so he sent a woman for the instruments. "No, I am afraid it will not be right. But perhaps― if I had someone to follow, a little might come back?" He pressed a lute upon Kaoru. "Can it be," said Kaoru, tuning the instrument, " that this is the one I heard the other morning? I had thought that there must be something rather special about the instrument itself, but now I see that there is another explanation for that remarkable music."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
不昧公の正室・方子と娘・玉映の落款
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自筆「源氏物語」の「橋姫(はしひめ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は橋姫(はしひめ)の内容の要旨
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。橋姫の巻は、源氏の君と女三の御子、薫の君と今上天皇の皇子・匂宮、そして、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮(朱雀天皇の皇太子)を父とする浮舟の恋物語を描いております。大君と中の君の姉妹は、朱雀院(前朱雀天皇)の弟・八の宮(朱雀天皇の皇太子)を父とする。八の宮の山籠りの留守中に宇治を訪れた薫の君は、有明の月の下で琴と琵琶を合奏する大君と中の君の二人の姫君の姿をかいま見る。その気品高い優雅に心ゆらいだ薫の君は応対に出た大君に交誼を申し出るが、代わりに応対に出た弁の君は柏木の乳母子であることを告げたうえ、柏木の遺言を伝えたいと申し出る。冬十月、宇治を訪れた薫の君に、大君と中の君の姉妹の後見の依頼を受け承諾した。その明け方、薫の君は弁の君と対面し自分の出生の秘密を知る。その証拠の品である柏木の遺書を読み、自分の薫は出生の秘密を知る。しかし、父柏木の顔を知らない。だが、親であることは間違いない。こまやかな目に見えない愛情の交流を闇の中で手探りをするような心境。薫が老女弁の尼にあてた柏木の遺書を読むかびくさい反故の入った袋に入った柏木の遺書「小侍従の君へ」と上書きに記している。篆書印は、薫の君の実の父・柏木の乱れた文字にまだ見ぬ父をしのびつつ親の心情を理解する。薫の君は美しい大君に心を動かされ愛情が芽生えていく。
原本自筆上部に「半是君詩半是書」(半ばこれ君の詩、半ばこれ君の書)という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節である。薫は出生の秘密を知る。しかし、父柏木の顔を知らない。だが、親であることは間違いない。こまやかな目に見えない愛情の交流を闇の中で手探りをするような心境。薫が老女弁の尼にあてた柏木の遺書を読むかびくさい反故の入った袋に入った柏木の遺書「小侍従の君へ」と上書きに記している。篆書印は、薫の君の実の父・柏木の乱れた文字にまだ見ぬ父をしのびつつ親の心情を理解したものとされている。紫式部が「橋姫」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」橋姫(はしひめ)の巻》
「橋姫」の巻は英文で「The Eastern Cottage」と表記されます。
《自筆上部の原本自筆上部に「半是君詩半是書」(半ばこれ君の詩、半ばこれ君の書)という漢詩文の落款が押捺されている。
この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
自筆右下の上の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。
《自筆上部の原本自筆上部に「半是君詩半是書」(半ばこれ君の詩、半ばこれ君の書)
という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。
《「源氏物語」橋姫(はしひめ)の巻》
《「半是君詩半是書」(半ばこれ君の詩、半ばこれ君の書)
という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
《宇治八の宮の物語》
《薫の君、姉妹を垣間見る》
《薫の君、大君と御簾を隔てゝ対面》
《薫の君、宇治へ手紙を書く》
《薫の君、匂宮(今上天皇の皇子)に宇治の姉妹を語る》
《十月初旬、薫の君、宇治へ赴く》
《「さきの》・・・・たひの、霧にまと(惑)はされ侍(はへり)し
明ほの(曙)に、いとめつらしき物の音、一声承りし残りなむ、
なかなかにいといふかしう、飽かす思うたまへらるゝ」なと聞こえたまふ。
「色をも香をも思ひ捨てゝし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」
とのたまへと、人召して、琴取り寄せて、
「いとつきなくなりにたりや。しるへする物の音につけてなむ、
思ひ出てらるへかりける」とて、琵琶召して、客人にそゝのかしたまふ。
取りて調へたまふ。「さらに、ほのかに聞きはへりし同しものとも
思うたまへられさりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」
とて、心解けても掻きたてたまはす。
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
《「源氏物語」橋姫(はしひめ)の巻》
《桐壺天皇の皇太子・八の宮の二人の姫君(大君と中の君)と薫の君(女三の宮の子)の恋物語・自筆「源氏物語」橋姫》
《八の宮(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子)姫君(大君と中の君を養育)》
《国宝・橋姫の元になる原文・薫の君、大君と中の君の合奏を聴く》
《桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮の娘・大君と中の君の合奏後、薫の君老女房の昔語りを聞く》
《薫の君、弁の君の話(薫の君の出生の秘密を知る)に関心をいだき再開を約す》
《薫の君、桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮と対面、大君と中の君の後見を託される》
《夜中はまんじりともせずにいると、川風がじつに荒々しく吹くにつれて、木の葉の散り乱れる音や、
流れの響きなど、風情(ふぜい)も通り越して、ものおそろしく心細いあたりのさまである。
明け方も近くなったろうかと思うころに、中将(薫の君)はこの間の暁のことを
思い出さずにはいられなくて、琴の音は感に堪えぬものといった話から、それを糸口にして、
(薫の君)「この前》・・・・・・参上いたしました折、深い霧に迷わされました夜明け方に、
じっさいおみごとな楽の音をほんの少し耳にさせていただきました。
そのためにかえって残りをもっとお聞かせいただきたくて、あのままでは
物足りなく存ぜずにはいられません」
などとお申しあげになる。宮(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮)は、
(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮)「俗世間の色香にはまるで未練を捨ててしまいましてからは、
昔聞き覚えたこともすべて忘れておりまして」
とおっしゃるけれど、それでも女房をお呼びになり琴を取り寄せて、
(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮)「今の私にはまったく不似合いなことになってしまいました。
先に立ってお弾きくださるのなら、そのあとから思い出されもいたされましょう」
とおっしゃって、琵琶(びわ)をお取り寄せになり、客人にお勧めになる。
中将(薫の君)は、それを取って調子をお合せになる。
(薫の君)「私がほのかにお聞きいたしましたのと同じ物だとは、とても思われません。
あの折はお琴の響きがすぐれているせいかとばかり思っておりましたが」
と言って、気安くは弾こうとなさらない。
宮(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮)が、・・・・・
《(桐壺帝の皇子で朱雀天皇の元皇太子・八の宮)「まあ、これはお人が悪い。
そんなふうにお耳にとまるほどの奏法(て)などがどこからこの山里へ伝わってまいりましょうか。
とんでもない仰せ言です」
と言って、琴(きん)をおかき鳴らしになるが、その音色がまったく身にしみてもの寂しく聞える。》
備考・
美しい大君と中の君の二人の姫君の父・八の宮は、桐壺天皇の皇子であり、朱雀天皇の弟で皇太子でもあった。本来なら次期天皇と目されていたが政変により都を離れ宇治に住む。
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。
《The Lady at the Bridge(橋姫)》
"On my last visit, as the morning mist was rolling in,
I was lucky enough to hear a short melody, a most extraordinary one.
It was over in a few seconds, and since then I have not been
able to think of anything except how I might hear more."
"The hues and the scents of the world are nothing to me now,"
said the prince, "and I have forgotten all the music I ever knew."
Even so he sent a woman for the instruments.
"No, I am afraid it will not be right. But perhaps―
if I had someone to follow, a little might come back?"
He pressed a lute upon Kaoru.
"Can it be," said Kaoru, tuning the instrument, "
that this is the one I heard the other morning?
I had thought that there must be something rather special
about the instrument itself, but now I see that there is
another explanation for that remarkable music."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《橋姫》
“上次造,于弥漫的拂,
听到女公子出几声美妙的琴声。未能听,
反有不足之憾。”八王答道:“我已屏除声色,从前学得的都忘了。”
但是召侍者将琴取来,道:
“要我琴,在太不相称了。得引一下,我才回想得出来。”
便命取琵琶来,客人奏。薰君就琵琶,和他合奏了一会,
道:“我上次听到的,似乎不是把琵琶的声音。
恐怕那把琵琶音色与不同,所以声音特美。”
致珊起来,便不再下去。八王:
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
注記・中国語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。
左の写真が「源氏物語」橋姫の巻の末尾(原本番号38-B)の押印。
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。左端の写真は「橋姫の巻」末尾の拡大写真。
上の篆書体は、「「半是君詩半是書」(半ばこれ君の詩、半ばこれ君の書)の押印。
篆書体の左の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
写真右上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(橋姫の巻)MRI 45―31B
自筆二つの印のうち上は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款。
「源氏物語」「橋姫の巻」主人公・橋姫の資料
下記写真は、国宝「源氏物語絵巻」の中に描かれる大君・中の君の姫君と薫の君。
「源氏物語絵巻 」橋姫(国宝)琵琶を前にする中の君(左端)と、
琵琶を横に置く大君。邸の外から二人の姫君を眺めるのが薫の君(右端)
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行
源氏物語「橋姫」原本に記されております。紫式部が「橋姫」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「橋姫の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「橋姫の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。
「香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)香煙引到楚香処」(香煙引き到る、楚香の処)の漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
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